プロローグ☆悪性リンパ腫闘病記
プロローグ |
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| 先ず始めに、プロローグとして、当サイトの主人公・父のことを簡単にご紹介させてくださいね! 鹿児島市出身、大正生まれの父は、無病息災をトレードマークに 見える元気者でした。食べ物の好き嫌いはほとんどなく、家族の手料理は何でも喜んでモリモリ 食べ、現役時代は病院とは無縁。若い頃は柔道、中年以降は水泳で身体を鍛えていたため、 年齢の割に基礎体力もかなりあった方だと思います。 仕事は、放射線生物学を専門とする科学者でした。母校の研究室を経て、研究所の研究員となり、 定年退職後はインドネシアの某国立大学のプロジェクトに関わり、4年余り同国に在住。 帰国後は、日本の大学や研究機関に所属しながら、研究と論文執筆を続けました。 東南アジアと縁の深かった父は、東南アジアの伝統食文化にも興味を抱き、著書も出版しました。 父は自分の研究を通じて、アジアの人々の役に立ちたい、という思いが強かったようです。 この気持ちの根底には、学生時代の戦争体験があったと思います。 「人生、死ぬまで学ぶことの連続だ」、「勉強はいくつになっても出来る」と言っていた父は、 出世欲や名誉欲、物欲とはトンと縁がなく、生涯を地道な実験と研究に捧げました。 ★ ★ ★ 放射線生物学を専攻した父は、広島の二次被爆者(原爆投下後、72時間以内に入市)です。 1945年8月8日広島市に入り、核兵器による惨状を目の当たりにした父は、生涯に渡り放射線の 平和利用を訴え続けました。放射線や原子力と言うと、“ひどく恐ろしいもの”という誤解がつきま といがちですが、医療への応用や食品照射など、利用法次第で人類の役に立つ存在でもあります。 持論を裏付けるかの如く、父自身も、局部の放射線療法を受けました。 ここでちょこっと、父の思いをご紹介します。1975年に発行された放射線生物学会誌『放射線 生物研究10巻3号1975 特集・原爆30周年を迎えて』に掲載された、父の原稿からの抜粋です。 ”原子力が一旦悪用されると人類に如何に大きな悲劇をもたらすかを、私はヒロシマではからず も体験した。それは少なくとも私にとっては、放射線の生物効果の研究とその成果の利用は われわれの生命をまもり、暮しを豊かにするためにのみなされるべきであるという教訓に外なら ない。公害問題にめざめた現代においては、さらに単なる利用でなく安全性の確めを含めた 研究を包含しなければならないであろう。私の原子力との初対面は、人類の頭上への最初の 原爆投下というまことに憎むべき出来事であっただけに、このことを念ずるものである。30年前 の炎天に立ち昇った原子雲の下に散ったヒロシマ・ナガサキの犠牲者の苦しみを、私どもは 決して忘れてはならないと思う。”(以上、上記学会誌P24より) 科学者だった父は、医学の専門知識こそなかったものの、医薬品や抗がん剤の名称や効用 について、家族よりもずっと博識でした。常に、自分の治療法を理論立てて把握し、自分の症状 と冷静に対峙していました。生来の性格的なものもありますが、生死の境目をくぐり抜けて来た 戦争体験世代は精神力が違う、とつくづく思います。 もちろん、そんな父だって、気弱な気持ちや、「悪いことをした覚えもないのに、どうして僕が こんな厄介な病になっちゃったんだ?」というやり切れない気持ちに襲われたことも度々だったはず。 でも、離れて暮らしていた私に対しては、いつも電話口で「大丈夫、元気だよ。な〜んにも心配 することないよ」と力強く言い続けてくれた、あっぱれ父さんでした。 性格は、真面目で誠実、ウソがつけない性分で、大の努力家。話術に長け、話し好きでオチャメ な一面もありました。なぜか、乳幼児や動物に親しまれる雰囲気があったようで、初対面の お子チャマや猫にもすぐ懐(なつ)かれる傾向がありました。 趣味は油絵、水泳、日曜大工、写真、園芸、TVのスポーツ観戦など。 手先がメチャ器用で、自宅にある棚の多くや庭の階段・水道設備は父の手作りです。 鹿児島出身なだけに、お酒も滅法イケる口でした。 本来の家族は、両親と私たち二女の4人。母は1995年に急逝、私(次女)は海外へ出稼ぎに行き、 父は姉と同居していました。父のがん発覚以来、姉が仕事をしながら父の日常の世話をし、 私は折を見て一時帰国するという生活が続きました。 Copyright (C) おやっどん、またね! All Rights Reserved. |
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