転院と緊急入院☆悪性リンパ腫闘病記
転院と緊急入院 |
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| がん患者さんまたはご家族の方の中には、今、転院を考えている方もいらっしゃることと思います。 父のケースは、”がん患者の土壇場における転院事例”と言えるだろうと思います。 転院を検討中の方にとって、私たちの体験談が少しでも参考になれば嬉しいデス! 父は、受診していた大学病院ではなく、大学病院に程近い私立病院に転院の形で緊急入院し、 48日後に天国へと旅立ちました。患者または家族の意思で転院したわけではなく、緊急入院時に 大学病院から「空きベッドがない」と言われ、私立病院を紹介されました。つまり、自発的な転院 ではありませんでしたが、ラッキーなことに、転院先の私立病院のケアは心のこもったものでした。 ★ えっ、転院? ★ 2005年1月に悪性リンパ腫が発覚した父は、2006年5月初めまで、通院を中心とする抗がん治療 を続けてきました。抗がん剤の副作用により、食欲不振にこそ陥ったものの、年齢の割には基礎 体力があったし、抗がん剤投与量が通常の約半分と少なかったせいもあり、見た目には顔つやが 良く、声にも張りがあり、体重もさほど減りませんでした。周囲の人々からは異口同音に、 「とても闘病中とは思えない」と言われたほどです。 ところが、2006年5月に入り、食欲の一層の減退、足元が覚束ない(歩行障害)、日中でも突然 の睡魔に襲われる(意識レベルの低下)、という諸症状が現れました。連休明けの5月9日、 心配した姉が父を病院へ連れて行き、翌10日に緊急入院することになりました。 入院当日、父は意識こそしっかりしていたものの、歩行出来ない状態にあったため、仕方なく 救急車を呼んだそうです。シンガポールにいた私は、姉から国際電話で一連の出来事を知ら されました。 ★ ★ ★ 姉はその電話の中で、やや躊躇気味に「それがね、入院先は大学病院じゃないのよ」と、意外な ことを言いました。「えっ、なんで?」と驚く私。姉曰く、「大学病院に空きベッドがないと言われたの。 その後、主治医のA先生にも直談判してみたんだけど(注:入院担当医は別の医師)、どうしても ベッドの空きがないんだって。あんなに大きな病院なのに、緊急用のベッドが1つもないなんて、 ヘンだとも思うけど。何だか見放されたみたいでねぇ……。救急隊員の方もしきりと、 『おかしいなあ、かかりつけの病院が受け入れないなんて』と首をかしげてらしたのよ」。 姉の言葉を聞いた私は内心ショックを受けましたが 心細い思いをしているに違いない姉の手前、「私が気弱な発言をしてはならんっ!」と気を取り直し、 「まさかぁ、見放すわけないじゃない! 仕方ないね、どうしても空きがないんじゃ」と答えました。 「うん、まあね。主治医のA先生に確認したんだけど、退院したら、また大学病院で診察して くれるって」という姉の言葉を聞いて、少し安堵しました。 ただ、その後も、姉の「見放されたみたい」という言葉が、私の頭の中に強く残ったのも事実です。 ★ 晴れのち雨 ★ さて、父が転院という形で緊急入院した私立病院は、それ以前に受診していた大学病院と 同系列の、こぢんまりとした病院でした。新たに主治医となったB医師は、父が受診していた 大学病院のご出身。経験豊富のようにお見受けしたし、温厚な話し振りにも好感が持てました。 B医師にしてみれば、厄介な患者を大学病院から突然押し付けられたわけですが、そんな雰囲気 を微塵も感じさせない医師でした。スタッフの皆さんも丁寧で、大病院では受けにくいであろう キメの細かいケアを受けることが出来ました。 緊急入院後に行った腰椎穿刺検査の結果、歩行障害や箸が持てないなどの筋力低下症状、 及び意識レベル低下の原因は、悪性細胞が骨髄に浸潤したためと判明。リンパ節の腫脹も 認められました。 B医師からは、「どの程度の治療を行っていくかは、ご家族の選択を尊重します。『本人を (治療で)苦しませたくはない』との理由から、何ら治療を行わないのも選択肢のひとつです。 現時点で治療を行うのであれば、週1回の髄注療法が良いと思いますが、様子を見ながら 治療していき、後日見直す、という選択肢もあります」と言われました。 緊急入院前、大学病院では放射線療法の可能性を言われていただけに、「あれっ、治療法が 違うの?」とも思いましたが、B医師に、「髄液は背中から頭部まで流れているため、該当部全体 に放射線照射を行うことは、お父様の体力や予後因子、危険性を考慮すると、現実的ではありま せん。それよりも、骨髄に直接抗がん剤を注入する方法の方が効果を期待出来ます」と説明され、 姉共々納得しました。「何ら治療は行わない」という選択肢は、当時の姉と私にとって論外でした。 髄注とは、早い話が背骨に注射するわけで、これは(失礼ながら)医師にとっても、患者にとっても 大変厄介です。一般に、高齢になると背骨の骨と骨の間隔が詰まり気味になり、その隙間から 注射針を入れるのは至難の技になります。患者さんによっては、どうしても注射針が入らない ケースもあるとか。「余程熟達した医師でないと、高齢患者への髄注は難しい」とも耳にしました。 患者にとっては、ものすごい激痛を伴う、ひたすら辛い治療です。 父の場合もご多分に漏れずかなり難航。入院直後に行った1回目の注射は、予定注入量の半分 しか入らず、1週間後の2回目は一旦失敗したものの、翌日整形外科医による再挑戦で成功。 メチャクチャ痛かったのに、父は自分からはひと言も文句を言いませんでした。 この頃(5月17日頃)から、抗がん剤の効き目が現れ始め、筋力も徐々に戻り始めました。 本人も頑張って、食事もきれいに平らげるようになり、このままいけば、歩行リハビリも夢じゃない! というレベルにまでメキメキ回復しました。 当時、シンガポール人の私の夫も看病のため来日していたのですが、「元気になったら家族みんな で温泉に行こうっ!」と、父を交えて話すまでになりました(夫は温泉未体験です)。夫は日本を 去る時、父の手を握りながら、「オトサン(←お父さんのつもり)、温泉に連れて行ってね。約束だよ」 と言ってくれました。 ★ ★ ★ ところが、抗がん剤の最も一般的な副作用である骨髄毒性(白血球減少、血小板減少、貧血)に 襲われ、白血球が一時300にまで激減(通常4000〜9000)、血小板も減少。白血球が減少すると、 感染症の危険性が出て来ます。感染症予防のため、5月22日、父の病室は準準無菌室(?)となり、 入室者は入室前の両手洗浄とマスク着用を義務付けられることに。そして、原則週1回の髄注を、 翌週、また翌週と延期せざるを得ない状況になりました。 幸い、白血球の激減による感染症は発症せず、当面は目立った変調も見られなかったのですが、 6月3日に突然容態が悪化。食事が殆ど取れない状態になってしまいました。血液成分の回復力 よりも、悪性細胞の再生繁殖力が勝るようになっていたのです……。 容態悪化から5日後の6月8日、3週間ぶりに待ちわびた3回目の髄注。しかし、またしてもうまく いかず、翌日レントゲン写真を撮ってから再トライ。やっと成功しました。でも、症状は横ばい 状態になりました。 6月13日夜、主治医から姉と私に症状説明。悪性細胞が脳を保護する髄膜にまで広がり、脳神経 が冒されたため、顔面神経麻痺に陥ったことがわかりました。「大変厳しい状況です。あと1〜2カ月 だと思います」と言われました。この時私は、「父のことだから、常識を覆して、何カ月も頑張って くれる可能性だってあるぞ。医師の発言は、あくまでも経験や統計に基づいているんだろうから。 まだまだ諦めるもんかっ!」と強く思ったものです。絶望はしませんでした。 6月15日に4回目の注射が成功しました。症状は相変わらず横ばい状態で、5月のような改善は 見られないものの、姉と私は「症状が悪化しないだけ有難い!」と思うようになりました。 父は、目は開けられず、口は閉められず、食事も出来ない状態でしたが、意識があるのが せめてもの救いでした。 薄々、「心の準備をしなくてはならんか……」と思い始めたのもこの頃です。 ★ 二転三転の7日間 ★ この頃の姉と私は、最悪の事態を想定しつつも、「何とかならんものか」と思いあぐねてもいました。 父はかなり症状が進行し、身体的に衰弱した状態にあったにも拘らず、幸い、顔つきはやつれな かったのです。シワやシミの少ない、頬がほんのり桜色の寝顔を見ていると、「まだ生命力は ちゃんとあるっ!」と強く思え、「あと1〜2カ月」と言われたとはいえ、諦める気になぞ到底なれま せんでした。 一方、父の入院前、大学病院の放射線科に6月15日の診察予約を入れてありました。それを 覚えていた姉は、父の代理として同科に行くことにしました。以下は、6月15日〜23日(土日を除く 正味7日間)に渡る、大学病院とのやり取りの記録です。 (一言補足しておくと、姉と私が大学病院での治療に固執したのにはワケがあります。 プロローグでも述べたように、大学病院は父の母校内にあり、その大学キャンパスは、父が学ん でいた60年以上も前の面影を今も色濃く残しています。父にとっては、学部、大学院、研究室と、 二十代と三十代の若く充実した歳月を過ごした懐かしいキャンパスであり、あちこちにスケッチや 散策をした思い出がたくさん残っていました。一緒に病院へ行くたびに、「あの木はね、古代から ある種(しゅ)なんだよ。あの建物はね……」と、あれこれ教えてくれたものです。 毎週、週によっては連日こなさなければならない、膝の痛みをこらえての通院も、行く先が 懐かしい母校だったからこそ、父も頑張れたのだと思います。不出来な私は、母校への思い入れ なぞトンと持ち合わせていませんが、勉学と実験が何よりも好きだった父は、母校への愛着が とても深かったのだと思います。決して母校自慢はしませんでしたが。(余談だけど、海外にいる 日本人で母校自慢する人って、結構いるんですよね。大人のそーゆー自慢って苦手だなあ…。) 転院先の私立病院には感謝しつつも、土壇場になって、姉と私が父を大学病院に転院させたい と強く願った大きな理由のひとつは、この、父の母校愛です。) ★主な登場人物 A医師: 元来受診していた大学病院の血液内科主治医 B医師: 緊急入院先(転院先)である私立病院の内科主治医 C医師: 3月に放射線照射でお世話になった大学病院の放射線科担当医 D医師: 大学病院の入院担当医(A医師の上司) 6月15日(木) 「放射線科のC先生にはお世話になったし、報告方々、患者代理で行ってみる。患者じゃないから 会ってもらえるかどうかわからないけれど」と言い残して、姉が大学病院へと向かった。 大学病院放射線科のC医師と話をした姉は、「あくまでも一般論だが、がん療法として放射線照射 は非常に有効である」と言われ、一縷の望みを抱いて帰って来た。髄注療法は、一時は奏功した ものの、最早効果が望めない状況だったので、姉と私は「ダメモトでも何でもいい、どんなに 僅かでも望みがあるのなら、父に放射線療法を受けさせてあげたい」と考えた。 転院先の私立病院の主治医B先生から、「該当部全体に放射線を照射する療法は(父の場合) 現実的ではない」と言われたことは、もちろん覚えていたが、私立病院には放射線治療の専門医 が不在だったことも事実。(私はそれ以前、放射線科の専門が放射線治療と放射線診断に大別 され、各領域は大きく異なることさえ知らなんだ。あ〜、ムチムチ…。) お世話になっているB医師には申し訳ないと思いつつも、父が助かる可能性が少しでもあるのなら、 何とか転院させて、放射線療法に挑戦したかった。 患者本人である父はその時、治療法の選択を出来る意思状態になかったが、放射線の平和利用 を訴え続けてきた科学者の父なら、きっと放射線照射を受けるだろう、とも考えた。 6月16日(金) 私は、「父の容態は、もう一刻も猶予ならん抜き差しならぬ状態にある」と判断し、翌6月16日夜、 大学病院で父の主治医だった血液内科のA医師の元を、藁をもすがる思いで訪れた。 非常識にも、いきなり面会の予約もなしに訪問したのだが、若いA医師は約45分もの時間を 割いて、当方の話に耳を傾けてくださった。でも結果は……かなり落胆させられるものだった。 同医師は、父の現状では放射線治療は極めて難しいとの見解を示した上で、大学病院への入院 も「順番待ちのため、早くても2週間程度かかる」と語った。 「緊急なんです。生きるか死ぬかの瀬戸際なんです。それでも、通常の順番待ちをしなくちゃ ならないんですか? もし、事故で瀕死の重傷を負った患者が来ても、この病院では、外科の ベッドに空きがないと言って何日間も待ってもらうんですか? 失礼ですが、先生のお父様が 私の父と同じ症状になっても、通常の順番待ちをしますか?」。無礼を承知の上で、私は怒気を 隠そうともせず、質問の連続パンチを繰り出してしまった。 意気消沈して帰宅した私は、姉と再び相談。「こうなったら、大学病院放射線科のC先生の見解を 聞いてみよう」と結論付け、落ち着かない気持ちで、週明けを待つことにした。 6月19日(月) 私は、放射線科のC医師に直談判すべく、診察受付開始前の朝8時、大学病院に到着。この 大学病院の放射線科は、受付、看護師、技師などスタッフの方々が揃ってと〜っても親切! ひとりぽつねんと待合室で医師を待つ私にTVをつけてくださったり、冷房温度を気遣って声を かけてくださったりと、それはもう、親切のてんこ盛り。ともすれば、涙がこぼれ落ちそうに なる重い心をひきずっていた私にとり、こうした気遣いは本当に有難いものだった。 そして、思いの他待たされずにC医師に会うことが出来た。同医師は、私の話を聞いた上で、 「口頭で話だけ聞いていても何とも言えないので、とにかく今いる病院から、資料をもらって来て ください。資料を見た上で、考えましょう。放射線療法を受けるのであれば、今の病院(転院先の 私立病院)には放射線科がないから無理。この病院(大学病院)に入院することになるけど、 入院予約は本来の受診科である血液内科から手配してもらう必要があります」と言われた。 この大学病院は、最低でも3日前でないと受診予約を受け付けないシステムなのだが、 放射線科のC医師は緊急性を考慮してくださり、特例として翌日午後の予約をすぐに入れて くださった。有難い。 ともかく、急いで父が入院している私立病院へ戻り、主治医のB医師に事の次第を話すと、気持ち 良く「明日の午前中までに資料を用意しましょう」と言ってくださった。B医師に話す時、父の 入院直後から毎週2〜3回、欠かさず見舞いに訪問してくれていた叔父も同席してくれた。 姉と私にとり叔父の存在は大変心強く、いくら感謝してもし切れない思いでいっぱいだ。 B医師に対しては、申し訳なく思う一方で、心から感謝した。 もうひとつ、とても嬉しかったのは、大学病院血液内科のA医師が夜、心配してわざわざ電話を かけてきてくださったこと。「お力になれず、申し訳ない」と言ってくださったが、A医師はまだ お若いし、立場上思い通りに進められないことも多いのだと察した。3日前にメチャきつい口調で 話したことを申し訳なく思った。すみませんです! 父はラッキーだと思う。A医師にしろ、B医師にしろ、人格的に立派な主治医に恵まれて。 A医師からの電話のお蔭で、姉も私も看病疲れが吹き飛んで、笑顔で眠りに就くことが出来た。 6月20日(火) 入院先の病院が用意してくれた父のMRI画像を手に、大学病院の放射線科を再訪。でも、その 画像は入院時、つまり容態悪化前に撮影されたもので、しかも病巣が写っていないものだった ので、無駄足に終わった。トホホ。私が自分の無知さ加減を呪ったのは言うまでもない。 トボトボと父のいる私立病院へ戻り、再度主治医のB医師に、大学病院宛に所見を書いてくれる よう依頼。さしもの私も再三の依頼に気が引けたが、父の命がかかっているだけに、必死の 思いで頼んだ。有難いことに、B医師は今度も快諾してくださった。 6月21日(水) 前日夜、シンガポールから到着した夫(シンガポール人)と共に、B医師の所見を携えて 大学病院を再訪。血液内科のA医師に挨拶をした後、放射線科のC医師を訪問、所見を尋ねた。 放射線科のC医師は、「今のお父さんの状態では、放射線療法による効果は期待出来ませんよ。 限りなくゼロに近い。主治医に『あと1〜2カ月』と言われている状態で、放射線療法を施す例は ほとんどない。土壇場になっての余命の予測は、医師にとっても非常に難しいし。僕の父だったら、 照射はしません。ただ、血液内科から照射治療を依頼されれば、行いますよ。体力的に転院が 可能かどうか、現在入院先の主治医に確認する必要もありますね」との厳しい所見を述べた。 恐らくC医師は、入院先主治医のB医師による所見を読み、「こりゃちょっと…」と判断したのだろう。 父のいる私立病院へ戻る道すがら、私は夫に、C医師との会話を説明。(夫は日本語を解さない ので。)夫は、「どんなに低い可能性であっても、カンペキにゼロでない限り、挑戦してみるべきだ。 お父さんには、病気と闘う意志があるんだから」と励ましてくれた。さすが、我が相棒! 私立病院で待っていた姉とも相談、「後悔しないためにも、出来る限りのことはしたい。転院が 体力的に可能なのであれば、放射線療法をお願いしよう」と意見が一致した。夜、入院先の B医師に経緯を報告、「今なら転院は可能です」と言われ、思い切って転院手続きを依頼した。 6月22日(木) 夜、疲労困憊して帰宅、居間で寛いでいた時、姉の携帯電話が鳴った。 血液内科のA医師から。用件は「明日午後、大学病院の入院担当D医師の元に来てください」。 入院担当のD医師は、電話をくださったA医師の上司に当たる方。う〜ん、何だか不吉な予感…。 姉は仕事があるため、私と夫が大学病院へ行くことにした。姉は私に何度も、「入院拒否の話だ と思うけれど、決して怒っちゃダメよ」とクギを刺した。姉サマ、がんばるだよ。 6月23日(金) 落ち着かない気持ちで、夫と共に大学病院へ。頭の中では、姉の警告する言葉がリフレインして いたが、病院に近づくに従い、土壇場になって父を受け入れてくれなかった大学病院に対する、 やり場のない苦々しい思い 面会場所へ到着した私は、入院担当のD医師に挨拶もろくにせず、ブーたれた表情で着席。 D医師の話は予想通り、転院は勧められない、というものだった。でも説明は、「お父様の現在の 状態では、副作用を考慮すると、放射線照射は非常に危険」という納得のいくものだった。 冷静な気持ちになれた私は、「転院が非現実的ということはよくわかりました。もっともですね。 それはそれとして、今後の患者さんのために、どうしても申し上げたいことがあります。父は この病院が好きで、信頼して、ずっと受診してきました。なのに、一番大切な局面、緊急入院の 段になって、受け入れてもらえなかったのです。家族としては、”見放された”感が否めません。 何らコネクションのない、治癒見込みのない末期がん患者だから、ヨソへ回されたのでしょうか。 失礼ながら、こんなに立派な大学病院に、緊急用のベッドスペースが皆無だなんて、とても 信じられません。がん患者、特に父のように治癒見込みのない患者は、遅かれ早かれ入院に 至るはず。緊急入院を受け付けられないということは、末期がん患者は診ない、ということと同じ だと思います。私の認識が誤っていたら、ご指摘ください。見解を改めますから。 それから、末期がん患者のご家族に対しては事前に、『緊急入院時には転院せざるを得ない 可能性もある』と一言伝えておくべきと思います。ウチは、何ら転院に対する準備が出来ていな かったので、特に経済負担が大きく(入院費は大学病院の方が私立病院より遥かに低額)、 今になって算段に苦労してます すると、驚いたことに、D医師は以下のように答えてくれたのである。 「お父様を見放した、というような気持ちは決してありません。現に今も、当院には末期がんの入院 患者さんがいらっしゃいます。本当に空きベッドがないのです。実は、病院が民営化になって (前身は国立大学病院)、経営方針が変わり、『空きベッドをひとつも作ってはならない』と言われて いるのです。現場としては、『空きベッドが皆無では緊急患者を受け入れられない』と何度も異を 唱えているのですが、経営側になかなかわかってもらえません。極端な日は、ひとつのベッドを 2人の患者さんに使っていただいている状況です(朝から午後までの日帰り入院患者と、夕方以降 の入院患者が、同一ベッドを使用するという意味)。 お父様が入院された日も、お父様以外に3人の緊急入院があったのですが、空きベッドが全くなく、 全員他院へお願いするほか仕方がなかったのです。お父様をお願いした私立病院の先生は、 最も信頼の置ける内科医です」。 この言葉を聞いて、それまで心の中に鬱積していた大学病院への苦い思いが、霧散した。 「そうか、現場の先生方も大変なんだ」と思い直した私は、「私も長い間会社勤めをしていた 社会人ですから、経営陣と現場との板ばさみはよくわかるつもりです。先生も大変ですね。 患者家族としては、何とか経営サイドに理解していただきたいです。利潤追求もわかりますが、 医療の本質を考えれば、せめて最低限の緊急用ベッドスペースは確保していただきたい。今後の 患者さんのために、是非ご検討ください」と言って、その場を辞した。 夜、仕事から戻った姉に一部始終を報告。姉は「そうだったの……。見放されたわけじゃ、なかった んだ。これで、割り切れなかった気持ちがスッキリしたわね」と言ってくれた。 結果的に、大学病院とのやり取りがひと段落した僅か4日後、父は母のいる天国へと旅立ちました。 転院&緊急入院を巡っては、姉も私もあれこれ考えさせられましたが、とにかく力を尽くして 行動したので、悔いはありません。 家族の自己満足と言われるかもしれませんが、父が旅立つ直前に、大学病院に対する苦い思い を払拭出来たことは、姉と私にとって大きな救いでした。 (※このページ内容は、体験事実、患者家族としての正直な気持ちをお伝えするのが目的であり、 実在する病院や医師個人を非難・中傷する意図は全くありません。) Copyright (C) おやっどん、またね! 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